6月25日に登録5周年を迎える世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」。登録から5年を迎えて、構成資産の来場者の減少と、保存整備事業にかかる費用の問題が大きくクローズアップされています。世界遺産の観光や保存の面からみれば、いずれも大きな問題です。ただ、世界遺産のバックボーンとなる群馬の絹産業こそ、もっと切実な問題を抱えているのです。
効率求めた分業制があだに
富岡製糸場が設立されたのは1872(明治5)年。
フランス仕込みの立派なレンガ建築と器械製糸は、時の明治政府が西欧諸国に対抗して進めた殖産興業の代表格です。
日本は養蚕製糸の技術革新により、安く良質な生糸の輸出に成功。高級品だったシルクの価値を変え、誰もが身に着けられる素材として消費が広がりました。
世界遺産登録に際しても、この「西欧との技術交流」と「絹の大衆化」という功績が高く評価されています。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、製糸場以外に三つの構成資産があります。
近代養蚕農家の田島弥平旧宅(伊勢崎市)、近代養蚕法の教育機関である高山社跡 (藤岡市)、そして蚕種貯蔵施設の荒船風穴(下仁田町)です。
これら四つの構成資産は、蚕種(かいこの卵)→養蚕→製糸という絹産業の分業がうまく機能していたことを示しています。作業工程を分業化したことで生産効率を高め、結果として良質な繭と糸の大量生産が実現できたのです。
明治から150年以上が過ぎ、大量生産を追い求めた近代のものづくりは転換期を迎えています。
アパレル業界では大量生産に伴う大量廃棄、生産と焼却の環境コストが世界規模の課題となっています。必要なものを必要なものだけ作る、というミニマムなものづくりがトレンドとなり、小ロットの生産に適した国内の繊維産地がにわかに注目を集めているのです。
世界遺産の先に「産地の未来」
富岡製糸場が象徴するように、日本は昔から繊維技術が強いお国柄でした。
ところが、国内の繊維産地は内需の減少や中国との価格競争で衰退。国内の製造品出荷額は1990年代以降、四分の一にまで減ってしまいました。
繊維産業の分業制が進んだ結果、一つの工程を担う工場の廃業で、織物自体が作れなくなるという事態も起きています。少子高齢化による後継者不足が追い打ちをかけ、産地に伝わる貴重な技術が毎年のように失われているのです。
幸いなことに、群馬は今も日本一の養蚕県です。
大日本蚕糸会のシルクレポートによると、2018年時点で国内の養蚕農家戸数は293戸。群馬(109戸)はトップで、続く福島(39戸)を大きく引き離しています。
県や市町村の繭代補助も手厚く、養蚕を始めたいと全国から新規就農者が集まっています。富岡市内の繭生産量は、全国でも珍しく年々増加傾向にあるというのだから驚きです! 隣の安中市には、国内最大手の製糸工場「碓氷製糸」があり、今も日本の絹糸開発をリードしています。
織物産地も負けてはいません。
桐生産地はジャガード織物を中心に、小ロット・多品種に対応できる技術の広さが特徴です。最近は若手の職人が産地に入り、新しい感性で製品づくりを始めています。井清織物の生活雑貨ブランドOLN、手染めの浴衣を手掛ける桐染、伝統の「風通織」でストールを作るPRIRETなど。例を挙げればたくさんあります。
群馬には、地域固有の文化と風土を大切にするものづくりの精神があります。それを象徴するのが「富岡製糸と絹産業遺産群」であり、養蚕・製糸・織物の産地として今も「生きて」いるのです。
令和時代の「豊かさ」は、産地の未来とともにある―。そう信じて、群馬の産地を目指す若者が増えてくれればいいなと思っています。
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